君がここで笑うシーンが

いや、答えなんかはいいんだ ただちょっと

わたしとらもと、子どもの一生

「読んでみなよ、中島らも

高校生の時のことだ。大好きだった先輩がいた。たぶん、遅れてきた初恋だったと言ってもいいだろう。

同じ演劇部の、知らない知識をたくさん持っているかっこいい人だった。先輩の脚本はとても眩しくて、複雑で、演じるのも演出をつけるのもとても楽しかった。

 

ある日のこと。脚本を書きたいと言ったわたしに、先輩は本と桜色の栞をくれた。聞けば、わざわざわたしのために買ってきてくれたのだという。

その時渡されたのが、中島らもの本だった。

 

わくわくしながら本を読み、そして、挫折した。何度わからないと唸ったことか。何度投げ出しそうになったことか!!

 

めちゃくちゃ頑張ったけど、読めば読むほど解読不能だった。

 

わたしの遅れてきた初恋は、らもとともに散り、らもとともに泡沫となり消えたのである。

 

 

それから数年後。研究者のたまごになったわたしは学会で一冊の本を睨みつけていた。

 

また、らもか。

 

何かと学会で一緒になるいけすかない男が中島らもを読んでいたのだ。何を勘違いしたのかわたしがらもを読みたいのだと解釈した其奴は、頼んでもないのにわたしにらもの本を渡してきた。忘れもしない、あの日先輩に渡されたのと同じ表紙である。

 

「…もしかして、あんまりらも好きじゃない?」

男に煽られわたしは激怒した。ただでさえ普段からこいつは、こいつは…!!と思いながら中島らもを読んだ。読み直した。今度こそ!!と思いながら。

 

そしてわたしは、らもにまた負けたのだ。理解できなかった。これならどうだ、と渡された子どもの一生も正直あまりよくわからなかった。

 

この時わたしは誓った。中島らもを好きな人とは付き合わない。

 

それからしばらくして、わたしの誓いが世界一の変わり者が起こした熱烈なパラダイムシフトにより崩れ去り、いけすかない男の肩書きが別のものに変わろうとしていた頃。

好きなアイドルを失ったわたしは、とある読書家を好きになり、救いを彼に求めて様々な作品に目を通していた。そんな風にアニメに、エッセイにと助けを求めて彷徨っていた頃、彼は爽やかに言ったのだ。

 

「影響を受けた作家は中島らもです」

 

ああなんと、お前もか!!!!!

 

わたしはまた一生懸命らもを読んだ。あの日先輩に渡されたものを引っ張り出し、あの日未来の同居人がくれた子どもの一生を読み直し、聡明な読書家のすすめるらもを読んだ。表紙のきのこに縋るように、読んだ。

 

だがしかし、わからなかった!!!!!

 

わからなかったのだ。

面白い、面白い、けど…………と言葉にできない、解像度が低いことからくるあのもどかしさと言ったら!!!!!

 

こうして、影響を受けた人間たちが皆中島らもを履修していたがためにわたしの中にコンプレックスが芽生えた。

 

中島らもが理解できない」

 

 

それから幾多の時が経ち、わたしは遥々大阪の地で怯えながら劇場にいた。

松島聡さんが子どもの一生を演じることになったからである。

 

松島聡さんに関してはなんにも心配していなかった。だってSexy Zoneの子だ。努力で罵詈雑言をねじ伏せてきた子たちだ。正しい頑張り方を知っている子だ。だから、どこに送り出しても大丈夫なのだ。そもそも、胸を張って個人仕事に送り出せないアイドルを応援するほどわたしは暇ではない。太鼓判を押せるアイドルだから、どこへ送り出しても大丈夫な子たちだから、Sexy Zoneを応援しているのだ。

 

話がそれた。とにかくわたしが怖かったのは中島らもをきちんと受け止められるかという一点であった。最近になってようやくらもを理解しないことで理解する、という境地にたどりついたわたしが、きちんとこの物語を咀嚼できるか怖かった。そしてなにより、一応演劇を嗜んでいた身である。物語の咀嚼を失敗することで、舞台に対する感想が『わからない』で終わることはもっと嫌だった。たぶん原作がらもじゃなかったらこんなに戦いに挑む気持ちになることはなかった。でもらもなのだ。あの中島らもなのだ。わたしにとって中島らもは、戦うべき人なのだ。

 

そんなわけで、らもをこじらせた人間がみた子どもの一生。結論を言おう。

 

はちゃめちゃに面白かった。

 

というか見ながら気付いたんだが生身の人間が演じることでらもの解像度が一気に上がった。らもらもしい気持ち悪さが全身を駆け巡るこの感じ!!!!!最高に気持ち悪くて、最高に楽しい舞台だった。あと松島聡さんの血管。それが舞台に非常に素晴らしい生身の人間であるということを加えていた。素晴らしかった。

まだ静岡公演があるので細かい言及や考察をここで伏せ字なく述べることは避けるけれど、たぶんらもにとって子どもは怖くて、でも面白いものだったんだろうな。「自失を求めた快楽」のなれの果て、「自分たちが正気である」幻覚を見ている人たちをぶつけられる理解できない気持ち悪さ。

それから、山田のおじさん、やっぱりらも自身なのだろうか。なんか妙にリアリティがあって気持ち悪い宙に浮いてる感じが非常にらもを見ている時の感覚に近かった。いかにもらもが好きそうじゃないか。「よろしいですかあ!」ってぬるっと出てくる感じ。心に勝手に侵入してくる感じ。

あとあの、これはブライトンビーチの時からずっと感じていたのですが、川島海荷さん…………川島海荷さんはずっと舞台の上にいてくれ……と言わんばかりのあの存在感の透明さ。本当に素敵だった。

それからそれから、何回も言って申し訳ないのですが松島聡さんの血管が物語の生々しさを増してて非常によかった。完走前のこのブログでは極力シーンについての言及を避けたいので松島聡さんを褒める言葉が素晴らしかったと血管しか言えなくなってしまって大変申し訳ないのだけれど、とにかく素晴らしかった。ああいうある種正気を失い生きるということを突きつける舞台に松島聡さんの存在は本当にしっくりくるのだなあと思う。松島聡さん自身が透明でどこか掴めるようで掴めないところがあるから、ますますそうなのだろう。

あの物語における幻覚は狂った人間から見た違和感という意味での「幻覚」なのかもしれない。人間は誰しも狂っていて、「正気」だと言い聞かせているのかもしれない。終わったあとにいまだにこの舞台の結末を考え続けている時点で、とっくにわたしも正気だと言い聞かせている側の人間なのだろうな。

それはきっと、まさしく「B級ホラー」のなせる技なのだと思う。ただ怖いだけでは意味がない。

舞台の上やキャラクターにらもはいないんだけど、確かにそこにらもはいた。本当にみにいってよかった。今になってらもの解像度が上がってきたことに本当に感謝しています。素晴らしい舞台をありがとう。

 

とまあ、ひとまずぐるぐる考えている最中なので、こんな感じの感想で、「よろしいですかあ?」と問いかけて、一旦閉じようと思う。

山田のおじさん、貴方の生き方についての感想、ひとまずこれでよろしいですかあ?