君がここで笑うシーンが

いや、答えなんかはいいんだ ただちょっと

担降りと仏像

そもそもなのだが、おたくはなぜ担降りをするんだろう。新しい自担ができた。あらゆる理由により嫌いになった。えとせとら、えとせとら。

ちなみにはてなブログのタグにおける担降りの解説はこうである。

 

アイドルファン(主にジャニーズのファン)が、最も熱心に応援しているメンバー(担当、自担)のファンであることを辞めること。多くは、より好きなメンバーが現れたことにより、そちらにリソースを振り向けたいためであり、ジャニーズファンそのものを辞めるわけではない。つまり、自担を変更するといった意味に使われることが多い。

 

はた、とわたしは立ち止まる。そもそも、自担とは?

 

またはてなブログタグを見てみよう。

自分が担当、すなわち好きな、または応援しているメンバーの事。

 

 

さて。そもそもである。

中島健人さんはわたしにとって研究対象であり自担ではないような気がするのだ。つまりわたしに「担降り」はたぶんこない。あるとしたら自分自身の中島健人さんの研究を辞める自己都合退職くらいである。それは担降りではない。研究を辞めるだけだ。

 

いやまあ自己都合退職は今まで何度も考えている。

なぜならわたしを視界に入れてほしくないのだ。たぶんわたしのこれは担降りではない。なぜなら中島健人大先生はいつも変わらずそこで微笑んでいるからだ。変わっていくのはわたしだけ。

そもそも!!!!!そもそも!!!!!

中島健人大先生にはわたしのようなクソモブを視界に入れないでほしいのだ。隣の一緒に入ってくださったフォロワーだけみててほしい。フォロワーはかわいい。戦闘力500万くらい。隣のわたしは戦闘力3。何が言いたいかわかってもらえただろうか。とにかく!とにかくわたしは視界にいれないでくれ頼むから。こんなやつれた限界社会人を見ないでくれ……

わたしにとって中島健人大先生は仏像なのだ。仏像であり、神様であり、ご本尊。すなわち「拝む」存在なのである。だからわたしは一方的にあなたに祈りを捧げ平穏を願うがこちらにリアクションはしないでほしいのだ。何を言ってるかわからないだろうが仏像に「微笑め」とは願わないだろう?そういうことである。存在がファンサ。

つまり。わたしはただの拝観者だ。拝観料を払って中島健人というご本尊をみにいく。そして中島先生の功績や言動を研究し、後世に伝えていくのがわたしの仕事である。わたしは中島健人を学問にしたいのだ。

そのご本尊に向かって、なにが「担当」だ!!!!!あなたは仏像に「これわたしの自担〜」というか?言わないだろう!?だからそもそも中島健人さんはわたしにとって自担ではないのである。担当なんて呼べない。なにが自分の担当だ。崇め奉るべきご本尊に、なに担当とか言ってるのだ。中島健人大先生の解説担当の学芸員でもない限り、中島健人大先生に「担当」という言葉を使うべきではない。『研究対象』だから!!!!!

 

まとめると、そもそも拝観者とご本尊という関係であるため「担当」という概念がなく、それゆえ担降りも存在しない。たとえ、何かの間違いで中島健人さんを嫌いになる日が来たとしても、きっとわたしは担降りなんてしない。あとたぶんわたしが貴方を嫌いになるのにきっとあなたは関係ない。どうせ変わるのも変わらないのもわたしだけなのだ。なぜなら仏像は毎日変わらず我々の馴染みの場所にあるから。自己都合退職はあれど、担降りはないのだ。たぶん自己都合退職の理由は今から想像がつく。好きだから、視界に入れてほしくないので。

 

さて。何を書いているんだろうか。わたしもよくわからなくなってきた。ただこれだけは言える。世が世ならわたしはたぶんオーダーメイド仏像を作ってしまっていただろう。

ちなみにわたしは中島健人さんに出会うまで仏像のおたくをしていた。2時間並んで博物館に入り、ほぼ一日中同じ仏像を前にしていたこともある。あまりに煌びやかで泣いたこともある。以前いとうあさこさんが「花鳥風月という言葉があるだろう。人は花見て鳥のさえずり聞いて、風感じで最後月見て死んでいくんだ」と言っていたけれど、わたしは仏像を花のような可憐さがあり、中島健人は風の人だと思っている節がある。花鳥風月を噛み締めて生きているのだ。

ついでなので、わたしが仏像に狂った経緯でも話そうか。GANTZの千手観音にときめきを覚えてしまったのだ。そんなわけで、千手観音および仏像に狂い始めたのである。

e国宝という素晴らしいサイトがあって、そこでは貴重な品々を一覧で見ることができるし、今いらっしゃる場所も確認できる。あなたもぜひ一度見てみてほしい。わたしが最も気品と煌めきを感じる木造如意輪観音坐像も掲載されているので。夜中の停電して蒸し暑い最中に任せて書くが、わたしはこの木造如意輪観音坐像の説明文がずっと気に入らない。『ただし腕の一部が後補のものに換わっており、若干バランスを失っている点が惜しまれる。』というのだが、それが木造如意輪観音坐像の歴史と重みの象徴なのではないか……!!!といつも思う。人間の勝手なバランス感覚で惜しむな。

 

さて。勢い任せの2000字にお付き合いくださり本当にありがとうございました。本当になんだろうこの文章。最終的に国立博物館に行きたくなってきました。よかったらわたしと仏像巡りにいきませんか。