・はじめに
『わたしたちが日々を生きていく中で、「アイドルがアイドルになったきっかけ」を知ることがあっても、「おたくがおたくになったきっかけ」「そのジャンルにたどりつくまでの半生」って、お互いに話さない限りあんまりしらないよね』
そんな素朴な会話から、このインタビューはたちあがりました。おたくがおたくになるまでには様々なドラマがあって、それをどこかに残しておくことにはなにかしらの意味があるのではないか?という漠然とした名もなき命題を突き詰めるべく、まずは目の前のおたくの半生をたどることにしたのです。「沼落ちブログ」はあっても、「沼落ちインタビュー」はなくて。ないなら作ってしまえ!の精神のもと、このインタビューは行われています。
このインタビューが、あなたが推しへの想いを再確認するきっかけになりますように。
5,000字ちょっとの物語に、お付き合いいただけましたら幸いです。(もしもインタビューを受けてみたいという方がいらしたら、わたしのTwitterまでご連絡くださいませ)
・今回お話を聞かせてくれた方
P.N のぎさん
自担 菊池風磨
菊池さんに出会ったきっかけ:「友人に相撲をとるSexy Zoneを見せられて」
〜勝手に5000字インタビュー vol.1〜
「ずっと好きな人と同じ土俵に立ちたかった。」
国技館でrougeを聴いた唯一の人のおたく論
ー言える範囲で、自己紹介をお願いします
「宮城で大まかにいえば本に関する仕事をしています。」
ー菊池さんと出会うまでは、一途に相撲を応援していたんですよね?
「わたしは大阪の祖父の家で育てられてきたんですが、祖父がとにかく若貴(注:若乃花と貴乃花のこと)が大好きで。そんな姿をそばで見ていたので、わたしも自然に好きになりました。祖父はどちらかと言うと満遍なく色々な力士を応援していて、相撲そのものが好きだったんですがわたしはずっと、ずーっと豪栄道関が好きで。」
ー豪栄道関に出会われたきっかけは?
「あれは…いつだったかなあ。ちょっと自分がいくつだったかは微妙だけど。初めて祖父と相撲を観に行った時、一番下の人たちの時間帯から入ったんです。その時になんだか強い人がいるなあって思って祖父にきいたら『今日初めて本場所の土俵をお相撲さんだよ』って言われて衝撃を受けました。いくら学校とかで取り組んでいたとしても、初めての人でもあんなに強いんだって。かえって祖父とすぐに名前を調べて、『澤井』という名前だとわかりました。名前までかっこいいんだって驚いて、澤井、澤井って、口に出していた気がします。」
ーそれからすぐに『澤井』というお相撲さんを追いかけはじめたんですか?
「いえ。そのあとすぐに祖父の具合が悪くなって、しばらく相撲どころじゃありませんでした。当時は確か小学生だったんですけど、一時期は住むところも危うくて。わたしこれからどうなるんだろ、おじいちゃんが居なくなって、ひとりぼっちなのかなとか色々考えたりしました。暗い高学年だったなあって思いますね」
ーわたしもお会いしたことがありますが、あの全身健康体なおじいさんにもそんな時があったなんて衝撃でした。
「まさか90を超えていまだにピンピンしているなんてあの時は想像もつきませんでした(笑)祖父が病気をしたのは現状あれが最初で最後だなあ。あの辺はもう辛くてつらくてあんまり記憶ないんですけど、中学生になって、2年生の年の7月かな、祖父とまた2人で暮らせるようになって、それからまた2人で学校から帰ってきたら相撲を見る習慣が復活して、11月場所をみにいく約束をして、それがとにかく楽しみでした」
ーそして無事復活なさったお祖父様と訪れた11月場所で、澤井と再会を果たすと。
「そうです。でもちょうど改名のタイミングで最初はあのときの澤井はどこなんだって思って(笑)しばらく相撲を学校帰りに幕内の最後数番しかみれてなかったから状況も全然わかんなかったし。でも実際に相撲をみにいって、顔を見て気付きました。あ!あれだあ!って。やっぱりかっこよかった。それからわたしが豪栄道関を追いかける日々が始まりました。」
ー高校生になってからはアルバイトをとにかく重ねて、暇さえあれば通ったそうですね。
「はい。本当に暇さえあれば祖父と通ってました。祖父と一緒に相撲に出かけることだけが楽しみで。生活費と相撲に行くお金をひたすら稼ぐ日々でしたね。あの時はまだ相撲を純粋にみれてました」
ー純粋に?
「はい。高校を卒業する時、知り合いの人が角界入りすることになって。そのタイミングで不意に、『あ、わたしは土俵に立てないのか』って突然自覚したんです。それではじめて、ずっと好きな人と同じ土俵に立ちたかったんだなって気付きました。わたしは豪栄道関と相撲をとってみたかったんだなって。」
ー気付いてから相撲の見方はどう変わりましたか?
「楽しみなことは変わらなかったし、祖父との時間も大事な時間のまま変わらなかったです。でも観終わった後にどことなくずっと寂しかった。それは祖父にも打ち明けてて、祖父はずっと黙って聞いてくれてたのだけが救いでしたね。学校で相撲の話はできないし、友達にも言えなかったけど、家に帰ればいつでも祖父が味方でいてくれた。」
ーお祖父様はどんな言葉がけを?
「お前はお前の気持ちを大事にすればいい、さみしいはさみしいままでいい、って。それは今でもよく言われます。さみしいに嘘はつかなくていいんだよって。祖父はいつでもわたしを否定しないでいてくれる。やりたい放題な孫に本当に本当に寛容な人で、感謝しています。」
ー大学時代も相撲に通われましたか?
「大学時代はもう天国でしたね。相撲最優先で東京に行ったので(笑)一人暮らしの予定だったんですけど祖父がどうしてもついてくるって言って聞かなくて、結局4年間東京で二人暮らしでした。おかげで彼氏もできやしない(笑)まあ豪栄道関以外のかっこいい人なんか知らなかったんでどうでもよかったんですけどね。でもやっぱり東京からだと国技館がすぐそばで。暇さえあれば祖父と通っていました。」
ー少し話が前後しますが、豪栄道関は謹慎をしたりそれに伴い番付が下がっていた時期がありましたね。それの話を聞いてもいいですか?
「はい。引退よりは辛くなかったので話せます」
ー引退よりは、ですか
「ええ。あの時は子どもながらに何をやってんだよって呆れてました。でも、…こんなこと言ったら古参の嫌味みたいに聞こえるかな。豪栄道関がここで終わるわけないだろって妙な確信があって。ちゃんと反省して、ちゃんと戻ってきてくれるって信じてました。うん、土俵を完全に降りたわけじゃなかったから。まだわたしはだいじょうぶだったかな。確かにやったことはそれはもう許されませんけど、それだけで終わる人ならなけなしのバイト代全部捧げてないです。」
ー2014年9月に、豪栄道関はついに念願の大関になられましたね。どう感じていましたか?
「……実は大関前後の場所は一番後ろの椅子席で全通してて(笑)就活とか全部どうでもよくて、豪栄道関のことしか考えてなかったですね。かっこよかった。あの年はもう気迫が違ってたんですよ。わたしの好きな人が世界一かっこいいんだぞってドヤ顔してました」
ー古参の勘と貫禄でしょうか(笑)
「かもしれませんね(笑)豪栄道関の一ファンとしては伊勢ヶ濱さんには頭がずっと上がらないです。本人はきっといろんな気持ちがあったと思うけど、ファンとしては伊勢ヶ濱さんが「関脇で安定しているので大関になってもまだまだやれるだろう」って関脇の記録を認めてくださったのが嬉しかった。」
ー豪栄道関が大関になってから、応援の仕方は何か変わりましたか?
「とにかく豪栄道関がより一層かっこよくなった。役職がついておっきくなるって、こういうことなんだって。わたしの好きな人かっこいいなあ!って。たぶん恋の自覚をしたのはあの時期です(笑)」
ーむしろ大関になるまで恋心の自覚はなかったんですか!?
「わかんない、おじいちゃんはお前は力士の嫁になるってずっと言ってたんだぞって未だにいうけど(笑)あ、恋かもなって思ったのは大関の姿を見てからです。好きだなって、なんかこう、うん。大好きって口に出すのが照れくさくなっちゃって(笑)」
ーピュアな恋ですね……
「初恋だったので(笑)わたし本当に豪栄道関が引退するまでは恋愛なんて1ミリも興味なくて。うん、恋だったんだろうな。」
ー2016年9月、豪栄道関は全勝優勝を果たしました。
「あの時は!もう!最高!!(笑)仕事クビになってもいいから見させてくれって思ってた。最後の3日間は全部投げ捨ててずっと通ってましたね。千秋楽の日なんかもう泣きながら現地にいて。かっこよかった。本当に本当にかっこよかった。なんて素敵な日だろうって。今でも優勝インタビューで忘れられない言葉があります。「僕は不安でいっぱいだった。勝負ごとは最後まで分からない」って。あと「思い通りにいかないことが多くてつらかったけど、今日で少し報われました。うれし涙です」って言ってたのも忘れられない。ちょっと話してると泣いちゃいそうですもん。あの時ほど現地にいれてよかったなって思ったことないです。」
ー豪栄道関が優勝した際も、どこか寂しさはありましたか?
「優勝した時はもうわたしもアドレナリン大暴れだったのでそれどころじゃなかったんですけど(笑)その次の場所の方が、なんだろなあ、うーん……やっぱりお相撲さんになりたかったなあって思ったかな……優勝した豪栄道関に稽古つけてもらいたいなあとか、憧れて背中追っかけたかったなあとか、思いましたね。」
ーさて。それから3年後の2019年。いよいよ菊池さんと出会うわけです。
「そうですね。豪栄道関が優勝してからの3年間はまあ個人的に仕事が忙しくて、これまたあんまり覚えてなくて。豪栄道関もわたしも、浮き沈みがすごかった。失業もしたし再就職もしたし、おじいちゃんと宮城に移ったのもこの三年の間でした。相撲を見る以外楽しみがなかった。ほんとにほんとに相撲だけが楽しみで。でも今思うと、あの時菊池さんに出会えてなかったらたぶんわたしは翌年からのすべてを乗り越えられなかったと思うんです。」
ー菊池さんとの出会いのきっかけは?
「友人にSexy Zoneが相撲の稽古をしてる映像を見せてもらった時に、なんか好きな人に似てる人がいるなと(笑)豪栄道関の生まれ変わりみたいな人がいるんだけどって思ったのが菊池さんでした。」
ーやっぱり基準は「豪栄道関」なんですね。
「そうなんですよね。だってわたしの世界にはそれしかなかったから!(笑)そこから気になって色々みたりきいたりして、少しずつ「菊池風磨さん」を理解していった感じです。真面目な人なんだろうなってイメージでした。」
ー菊池さんと出会ってすぐ、豪栄道関が引退したんですよね。
「はい。2020年の1月です。12日目に大関陥落が決まった時に、嫌な予感がしてすぐに東京行きのチケットを取りました。職場に辞めますと伝えて、翌日すぐに東京に行ったんです」
ーえ、豪栄道関の嫌な予感がしたその日に、職場に辞めますと言ったんですか!?
「はい。たぶん仮にこの嫌な予感があたったら、たぶんわたしは立ち直れない気がしました。もしも仮に外れたら、とはあの時はもう思えなかった。もしかしたらもう二度と世界で一番好きな人にあえないかもしれない。それだけを考えていました。とにかく、もしも、もしも最後なら絶対に目に焼き付けたかった。予感が外れたら、それはもう手放しで喜んだけど、でも。でもとかだってとか、続けてほしいけど、でも、って。そればかり考えてました。」
ーでは1日1日を振り返りましょう。まず、大関陥落の決まった12日目の夜。
「職場のテレビで見ていて、涙が止まらなくなりました。力が抜けた。早退の手続きをとりながら、東京行きのチケットを購入して、上司に泣きながら辞めますって言ったのを覚えています。家に帰ったら祖父が無言で抱きしめてくれて、その時にふと、もしかしたら、ってより強く思いましたね。何かが終わるんだなって。」
ー13日目。
「ほとんど記憶がないです。でも怖くて、とにかく怖くて、ずっと菊池さんのソロ曲をきいてました。たぶん国技館でrougeを聴いてたのはわたしだけじゃないかな……(笑)」
ーなんでrougeを!?
「12日目以降は、いつ引退を言われてもおかしくないなって思ってたんです。だから、別れを決意するならrougeだろうと…(笑)」
ーなるほど。では14日目。
「もう国技館に行きたくなくて、ホテルに菊池さんの写真を飾って神頼みしてました。何を頼んでるかわからなかったんですけど、とにかく何かにすがりたかった。」
ーその日は国技館には?
「いきました。優勝争いとかどころじゃなかった。豪栄道関のことしか見えてなかったです。どうか次につながるものであれって願ってました」
ーそして迎えた千秋楽。
「最後の相撲をみた時、なんだか何もかもどこかへ消えていくような不思議な気持ちになりました。だって、本当にかっこよかったんです。あの日の豪栄道関。どんなことになっても受け入れる覚悟ができました。」
ー1月22日。豪栄道関の引退が発表されましたね。
「最初の感想は、お願いだから記者会見なんかやるな、でしたね。受け止めきれなかったから。しばらくずっと泣いてました。同時にもうかける言葉が何も見つからなかった。頑張れなんて言えないくらい頑張ってたから。あの日の豪栄道関は誰より綺麗だったから。だから、綺麗な闘志を最後に見れて良かったなとも、思って、」
ー…ティッシュさしあげましょうか?
「ほんとすみません……」
ー豪栄道関が引退されてから、どう過ごしていましたか?
「覚えてないです。ずっとPretender聴いて、Sexy ZoneのDVDみて、とにかく泣くっていう。確かにあの日の豪栄道関は綺麗で、綺麗だったから。2週間くらいそんな感じでした。当然仕事にも行けない。おじいちゃんが間に入って退職の手続きとか進めてくれて、知らない間に有給消化が始まってましたね。ひたすら泣いてました、ほんとに。ぎゅっとの『それでも夜は明けるけれど 君にとっては ツラいんだろうな』って、本当にその通りで。恋も青春も、なにもかもが終わったんです、あの時。豪栄道関のいない春の迎え方がわからなかった」
ー豪栄道関のいないはじめての春。どんなふうに過ごされていましたか?
「うーん……仕事もしてない、というかできなかったです。ずっと家にいて。たまに友達とカラオケに行ったりしたけど気は晴れない。友達と外にご飯食べに行って、豪栄道関にお手紙書いて、一度気持ちが高ぶって治りかけたけど、結局また泣いてしまうみたいな。」
ーそんななか、菊池さんのソロ曲を聴いて、怒りの感情を取り戻したと聞きました。
「ああ、HAPPY END!(笑)POP×STEP!?は一番泣いてた時期のリリースで、心配したおじいちゃんが早く元気になってくれって仏壇にそなえてたんです。でもおじいちゃんもおじいちゃんで好奇心旺盛な人だから、気になって仕方なくて先にCDを聴いちゃって(笑)大泣きしてたらおじいちゃんの部屋から大音量で「これが最後のまたね しずかにさよなら」ってきこえてきたんです。今の私だって、力が抜けた。それがふうまくんの声だとわかって、「菊池!!!!!」って声に出して、そしたらなんだか面白くなってきちゃって。めちゃくちゃ心情ついてくるな菊池風磨は、って。」
ー失恋に近かった豪栄道関への気持ちを、見事に救われた気持ちになった。
「そうなんです。『きっとね、きっと 明日も会えるよ』って、まさに千秋楽の日のわたし。あ、いいんだって思いました。願っていいんだ。あいたいって、寂しいって願っていいんだって。そう思ったら、急に楽になって。思えば菊池風磨さんって、いつだって矛盾を肯定してくれますよね。」
ー矛盾の肯定?
「あってはいけないけど寂しいとか、夜は明けるけどつらいとか。」
ーああ、なるほど。寂しいは寂しいのままで、というか、確かに菊池風磨さんの根底は矛盾の肯定かもしれないですね。
「菊池風磨さんが、わたしの矛盾ごと救ってくれた。たぶんそうなんだと思います。だから、私だけの今を生きようと思えたんです。よく考えたらおじいちゃんも近いことをずっと教えてくれていたし。土俵に立ちたいけど立てなかった気持ちとかも、菊池さんが救ってくれた。Sexy Zoneはみんな優しいけど、菊池風磨さんの優しいは肯定の優しいなんだと思っています。」
ー菊池さんに矛盾を肯定してもらってから、日々はどう変わりましたか?
「相反する感情が自分の中に生まれても、受け入れられるようになりました。土俵に立つことのできない自分が憎いと思う夜の方が多かったけど、それすらも受け入れられるようになってきましたね。あ、自分が憎いこともあるよなって。そうだよなあって。あとは、Sexy Zoneの曲を聴いてると余計な力が抜けるんです。頭ががんじがらめになったら、Sexy Zoneの曲を聴くようにしています。なんだろうな。自分を許せるようになったのかな。彼の代名詞は許せない!だけど、許せないこともあるよね、それでいいんだよなって。」
ー最後にお聞きしたいのですが、貴方にとって、『自担』はどんな存在ですか?
「ゆるしのひとだと思います。だからこそ、菊池風磨さんが菊池風磨さんをゆるせますようにって願っています。」
ーありがとうございました。何か本当に最後に言いたいことはありますか?
「今年も絶対にチケットをください!!!!!菊池さんに、Sexy Zoneにあいたいです!」
(完)